風仙洞

稲作の起源と「米」の語源

加筆修正:2023/12/06|作成:2011/10/14

目次

稲作の起源

数十年前、照葉樹林文化論が盛んだった頃、アジアの稲作文化の起源地は中国雲南省からインドのアッサム地方と言われていた。しかし、佐藤洋一郎氏や池橋宏氏の稲遺伝子研究の発展により、雲南起源説は否定され、長江中・下流域が稲作の起源地と見なされるようになった。

「稲作の起源」(講談社選書メチエ)表紙画像

池橋氏は「稲作の起源」(講談社選書メチエ)で、

  • アジア・イネ(Oryza sativa)はジャポニカとインディカに分けられるが、短粒型がジャポニカ、長粒型がインディカという区別は正しくない。品種の区別はDNA型に基づくべきである。
  • DNA分析の結果、ジャポニカの祖先種は、オリザ・ルフィポゴン(Oryza rufipogon) という現在東南アジアに見られる多年生のイネ科植物であり、インディカは、ジャポニカと様々な一年生野生種の交雑種である。
  • ジャポニカが本来は多年生であることは、稲刈りの後にひこばえが生えることからわかる。初期の栽培は、種籾を蒔くことによってではなく、タロイモなどの根菜類と同様に株分けによって行われたと推定される。
  • 温帯ジャポニカが水田で栽培され、熱帯ジャポニカは陸稲として畑で栽培されるという区別も適切ではない。比較的水が少なくても栽培できるように改良されたのが熱帯ジャポニカであって、熱帯ジャポニカを水田で栽培しても支障はない。

と主張している。

「古代中国と倭族」(中公新書)表紙画像

文化人類学の鳥越憲一郎氏は、「古代中国と倭族」(中公新書。出版社品切)で、長江下流域(江南)に原住した稲作民を「倭族」という概念で捉え、現在雲南からアッサムに居住し、稲作を行うタイ・カダイ系語族は、数千年前に漢民族に圧迫されて江南から移住した倭族の一派であることを明らかにした。もちろん「倭族」の別の一派が魏志倭人伝に言う「倭人」である。

日本への稲作の渡来については、

  1. 縄文中期:約6000年前の岡山県の遺跡からコメのプラントオパールが出土。熱帯ジャポニカと推定される。
  2. 縄文晩期~弥生早期:九州の玄界灘側(菜畑遺跡、板付遺跡など)を中心に極短粒米が分布。韓国の松菊里ソングニ遺跡と共通種。
  3. 紀元前200年頃:中国・連雲港市東海県焦庄(Jiaozhuang)遺跡(「徐福と焦庄」のページ参照)と共通の短粒米が九州の有明海北岸から拡散しはじめ、やがて極短粒米を駆逐(熱帯ジャポニカとは共存)。時期的に徐福集団との関連が推定される。

現在は長江中・下流域が稲の原生地であることが定説になっていて、実際に紀元前5000年~4500年と推定される河姆渡文化の遺跡から大量の炭化米が発見され、紀元前7500年~6100年と推定される彭頭山文化の諸遺跡からも籾殻が発見されている。2000年には、浙江省金華市浦江県の上山遺跡で約1万年前のイネ籾が発見された(「稲作のゆりかご上山遺跡」のページ参照)。なお、湖南省道県の玉蟾岩遺跡(18,000~17,000年前)からイネ籾が出土し、15,300~14,800年前という年代が測定されているものの、イネ籾そのものが測定対象になっているのではないため、最古の稲作例とは確定できていないらしい((財)日本水土総合研究所「長江流域における世界最古の稲作農業」のページ=国際日本文化研究センター 安田喜憲教授 執筆)。

しかし、そうした江南の稲作文化に先立つ稲作は存在しなかったのであろうか? 私は、約1万2千年以上前、ヴュルム氷期末に稲作が行われていたとしたら、現在の東シナ海の中央部が稲の祖先種原生地ではないかと推定している(下図)。また、ここは「東夷と中国語の起源」のページで書いた東夷の原住地とも重なる。

風仙による稲作の起源地
  • Google Earth Pro の地図を加工

20,000~18,000年前の最終氷期(ヴュルム氷期)最盛期には、北アメリカ大陸や北ヨーロッパは厚さ 3000m もの巨大な氷床に覆われ、その結果、海水面が現在よりも100~130m低下して現在の大陸棚の大部分は陸化していた。東シナ海も例外ではなく、現在の日本列島よりも広い平原が広がっていた。

海水面 128m 低下時の東シナ海~南シナ海
  • 産総研「地質図Navi」の「海面上昇シミュレーション」で作成
  • 氷河期中とはいえ、緯度的には九州南端~沖縄列島と同じくらいであり、末期ともなれば世界有数の暖流である黒潮が東岸を流れて、暖かく湿った空気を運んだため、現在の関東~九州の平地程度には暖かく、降水にも恵まれていた。(ケッペンの気候区分では Cfa または Cfb だろうか?)
  • 長江他の河川が当時の狭い東シナ海に注いでいたので、河川交通にも便利であった。
  • 交易の際、黒潮をうまく利用すれば、日本列島の太平洋岸には意外に早く行けた。戻るのは大変だったかも知れないが、ニホンウナギの回遊ルートで伊豆・小笠原諸島~マリアナ諸島~フィリピン・台湾沖と大回りしたかも知れない。

以上のように、稲作文化が発達するための条件は揃っているので、あとは実際に大陸棚から遺跡が見つかるのを待つだけである。東シナ海の石油探査の時に発見されるかも知れない......現代の技術では無理であろうか?

「米」(コメ)の語源

たわわに実った稲穂の写真

さて、次は「米」の語源である。

日本語には「米」の読み方は4つある。音読みとして呉音の「マイ」、漢音の「ベイ」、訓読みとして「コメ」と「ヨネ」である。「ヨネ」という読み方は既に平安時代に古語扱いになってたらしいが、「米田」「米川」「米山」「米沢」といった名字や地名、古めかしい女性名として残っている。

まず、「米」という字について手元の電子辞書カシオ XD-SX7300 の中日辞典(小学館「中日辞典」第3版)を引くと、姓や長さの単位としてを別にして、

  1. 1. 米
  2. 2-1.(広く)もみ殻を取り去った穀類
  3. 2-2. 米粒状のもの

となっていて、必ずしも「コメ」を意味しない。例えば上の中日辞典には、

  • 小米......(脱穀した)アワ
  • 高梁米....(脱穀した)コウリャン
  • 花生米....ピーナッツ
  • 包米......(方言で)トウモロコシ(筆者註:内モンゴル自治区包頭市でも baomi と言う。)

という用例が載っていて、広義の「米 mi」は日本語の「実(み)」と同じ意味と言って良いくらいである。何らかの語源的繋がりがあるのかも知れない。

一方訓読みである「コメ」の語源についてネット検索すると、

  • 「籠める」の連用形から名詞化
  • 朝鮮語の醸造を意味する「コメン(コム)」の変形
  • ベトナム語の「コム」
  • タミル語の「クンマイ」

といった説が目立つ。特に、国語学者の大野晋教授は、自身の日本語のタミル語起源説と絡めて、稲作がインド起源であることを主張している。

しかし、私はそういった従来の説に対して、異説を唱えたい。中国から伝わった作物なのだから、中国語に語源を求めるのが自然だと思う。

マコモ
マコモの写真

私が考えているのは、「菰米(gūmĭ)」或いは「谷米(gŭmĭ)」からの変化である。

まず、「菰米」であるが、これは現代中国語ではイネの近縁種であるマコモの種子である。

黒穂菌に寄生されて肥大したマコモの新芽は「マコモタケ」と言われる食材になるが、黒穂菌に寄生されず、成育する土壌が肥えていればマコモ米がとれると記したブログの記事
http://blogs.yahoo.co.jp/osouzisanbashi/12072721.html
はなくなってしまったものの、ウィキペディアの「マコモ」の項に、

北米大陸の近縁種(Z. aquatica、アメリカマコモ)の種子は古くから穀物として食用とされており、今日もワイルドライス(Wild rice)の名で利用されている。

と記載されている(2023/12/06 現在)。

学研「新漢和大字典」表紙画像

学研「新漢和大字典」(藤堂明保・加納喜光 編)によると、「谷」の発音は

  1. 上古音(周~秦・漢): kuk
  2. 中古音(南北朝~隋・唐): kuk
  3. 中原音韻(元): ku
  4. 近世音(明以降): ku(現代中国語拼音で「gū」)

と変化してきた。

音韻的にも、「古」の現代中国語 Pinyin は「gu(グー)」であるから、中国語「gumi」←→日本語「コメ」の対応関係が存在しても辻褄は合う。いつの時代かマコモは「米」に「コメ」の地位を奪われて、「真菰(マコモ)」になってしまったのではないだろか?

「谷米」については、中日辞典には掲載されていないが、「谷米」という単語がかつて中国のどこかで存在しても不思議ではない。現在でこそ稲は広々とした水田で栽培されるのが一般的であるが、灌漑や排水が発達していなかった昔は、谷沿いの池や沼や三日月湖、或いは山間部から平野になる扇状地の湧水池で栽培されたに違いない。

また同音で、「穀米」という言葉があったかも知れない(現代中国語簡体字の「谷」は、「穀」の意味でも使われる)。ただ、「谷」の音読みが呉音、漢音とも「コク」であるので、「gu」という読み方が随代以前に既に中国の東岸で発生してるかどうかが鍵となる。

最後に「ヨネ」についてであるが、私は「谷稔」が語源ではないかと考えている。

もちろん現代中国語 Pinyin で「谷」は普通「gu」と読み、「稔」は「ren」と読む。しかし、

  • 「吐谷渾(トヨクコン)」という古代の遊牧民族国家名の Pinyin が「Tuyuhun」であるように、「谷」には「yu」という異読もある。
  • 音読みで「ヨク」と読む「欲」や「浴」の Pinyin は「yu」である。
  • 「念」や「捻」は Pinyin で「nian」であるから、「稔」を「nian」と読んだ時代・地方があっても不思議はない。

と言える。

「ん―日本語最後の謎に挑む―」表紙画像

更に、山口謠司氏は、新潮新書「ん―日本語最後の謎に挑む―」 で、平安時代の中期過ぎにようやく「n」「ng」「m」という撥音を「ん」と表記するようになる前は、これらの音を表記するひらがな・カタカナがなかったこと、そして「ん」が発明された後も「ん」を表記するのが下品とされた時代があったことを明らかにしている。

ということで、「ヨネ」は「谷の実り=*谷稔 yunian」が訛ったものではないかというのが私の考えである。